AURA覚書

今日『AURA 魔竜院光牙最後の闘い』について話すので自分の中の整理のために。

・自分としてはとりあえず物語の着地点は二人が部屋でキスするところだという認識。最後の実は皆妄想戦士でした、というのはちょっと遊びが入った気がする。いや、大好きだけれど。「……ひきょうだぁ」
・メタであることは今更言うまでもないけれど、メッセージはものすごいベタだ(フィクションに憬れるのならまず現実頑張ろう、努力しよう)。だけれどこのベタはメタでしか読者を説得できないベタなんだろうな。
・「現実とフィクションの区別を付けろ」というのはまあ、もう古臭いし、反発したくなるけれど、AURAで描かれているのは「区別しなければヤバイ」フィクションと「憬れてもいい」フィクション。そこをちゃんと描けているのはやっぱり凄い。
・決してリアルな作品ではない。妄想戦士はもちろんだけれど、それ以外の登場人物もリアルではない。学校や街の雰囲気もまた然り。その点、こう言っては難だけれどちゃんと「ライトノベル」だ。
・けれど物語にリアリティを感じるのは確実に現実を元にしてキャラクターや雰囲気が作られてるからなんだろう。登場人物のどこかに自分を感じてしまうところがある。
・一番戯画化されてるのはライトノベルそのもの。ライトノベル=妄想戦士的な登場人物が活躍する小説群としてしまっているのは若干乱暴。
ハルヒとの対比。ハルヒは「現実→非現実」AURAは「非現実→現実(ともとれる)」
佐藤良子は果たして本当に「妄想」戦士だったのか?
・想像力としては「非現実(=理想)があってもいいんだ!」というものなのは変わらない。フィクションを肯定する物語。AURAのほうがむき出しだけれど。ハルヒの後にあるからそのむき出しさがより強い意味を持つのかもしれない。

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)

『あたし彼女』について

第三回ケータイ小説大賞大賞受賞作『あたし彼女』(著:kiki,リンク:http://nkst.jp/vote2/novel.php?auther=20080001)を読んだ。
あわせて、『ケータイ小説的。』(著:速水健朗)を読んだのだが、そこで書かれているこれまでのケータイ小説と『わたし彼女』とを比較してみると興味深い点が見つかったので、少しばかり考えてみようと思う。(ちなみに、僕はこれまでケータイ小説をまともに読んだことがないので(汗)、この考察はあくまで『ケータイ小説的。』でのケータイ小説観と『あたし彼女』についての比較に基づいたものです)
ケータイ小説的』によると、ケータイ小説で頻繁に、しかもリアルに描かれているものはデートDV(恋人同士でのDV)と呼ばれる恋人同士の関係である。彼氏が彼女のことを束縛し、時には暴力を振るう。そして彼女はそんな彼氏に対し、自分が至らないせいで彼は怒ったのだ、むしろ、暴力は自分に対する愛が合ってこそなのだ、と思い込んでしまう(これは彼氏が暴力を振るった後特に彼女に対して優しく、献身的に振舞うことにもよる)ことで暴力を許容してしまう。
非常に大雑把に言えば、デートDVとはこのような関係である。そして、それらが描かれるケータイ小説を、読者は「リアル」なものとして読んでいる(ケータイ小説の読者が実際に「リアル」を求めている、と言う話も『ケータイ小説的。』には論じられている)。
ここには、ケータイ電話の普及により、簡単に人とつながってしまうが故に、現在の若者が人とのつながりを何よりも大切にし、そして束縛されているという社会背景がある、と速水氏は分析している。
さて、ここで『あたし彼女』の話に移る。
あたし彼女』の設定を説明すると、男遊びに慣れていていかにも軽い「今時?」(本人が言ってる)な女性、アキは、現在トモという31歳のサラリーマンと付き合っている。アキはトモのこともこれまでの男と同じようにすぐに切れる関係だと思っている(少し長く続いているのもトモのセックスが上手いからだ、とアキは言っている)。アキの生き方は真実の愛なんてあるわけない、とりあえず今を楽しめばいいじゃん、という刹那的なものだ。
そんな風に生きてきたアキは自分は男から求められて当たり前だ、という感覚を持っている。実際、アキとこれまで付き合ってきた男はおそらく皆アキのことを求め、そしてアキに捨てられてきたのだろう。だけれど、トモはこれまでの男と違い、アキの言うことは聞いてくれるが、アキを求めたりはしない。アキと会う日も部下の仕事の手伝いで遅れるから、という理由で会うのに遅れたりする。そのことに、アキは不満を持っている。以下、その部分の引用。(改行を一字開けにしてあります)

でも トモは ちょっと 他の男と違う 束縛無いし アタシの事 特に 聞いてこないし いや 言う事聞いて くれるのは 他の男と 同じ なんだけど 何かが 違う 何か 他の男と違う なんか よく わかんないんだけど アタシ 男に求められて 生きてきたじゃん? だけど トモは アタシを 求めない アタシば欲しくないのか みたいな 逆に そんなの 初めてで ちょっと 悔しい みたいな 別に 特別いい男 じゃないんだけど 何それ 余裕? アタシにたいして みたいな なんか そんなの アタシが 負けてるみたいで 主導権は アタシなんだけど なんか 違うんだよね

ここで「束縛」という言葉がストレートに出てきていることに注目したい。これは『ケータイ小説的。』で書かれている彼氏からの束縛を受けてしまうことで愛を感じる、という受動的な構図の逆である。
この独白のすぐ後にアキはトモと買い物に出かけるのだが、そのときに寄ったアクセサリーショップでトモはペアのブレスレッドをアキの分「だけ」買う。そのことにアキはトモを問い詰めるのだが、そこでトモから『お揃い 嫌だろ なんか 束縛してるみたいで だから いいんだ』という台詞が出てくる。アキはその台詞にショックを受け、思わずもう片方のブレスレットもトモに買わせる。
ここで、明らかに『ケータイ小説的。』での恋人関係とは正反対の構図が現れていることが分かるだろう。彼氏が束縛し、彼女が応えるというこれまでの構図と異なり、『あたし彼女』では束縛を彼女が求めて彼氏が応じている、と読めるのである。『あたし彼女』はその散文詩的な文体が話題になっているが、内容的にもこれまでのセオリーの逆を突いている点でこれまでのケータイ小説とは一線を画していると見ることができるのではないか。
実際、『あたし彼女』はこの後もトモからアキへの束縛や暴力といったものは一切無く進んでいく。これまで「リアル」だと思われていた「ケータイ小説的」な要素もほとんどこの作品では感じられない(唯一、アキが妊娠し、流産してしまう、という描写はあるが)。
むしろ、彼女から束縛の欲望をあらわにする、という点は男性にとってあまりに理想的過ぎる女性像のように見えてしまう(アキの場合ツンデレ的な意味で)。そして、そんなアキの姿がこれまで「リアル」を求めてケータイ小説を読んできた人たちに受け入れられ、大賞に入選した、ということはなかなかに面白いことだと思うのだが、どうだろうか。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

文学少女と神に臨む作家(ロマンシエ)(下) 著:野村美月

小説を書けなくなったベストセラー作家の主人公と、食べてしまうくらい小説が大好きな文学少女の二人が織り成す物語。そんな『文学少女』シリーズの最終巻。最初から最後まで十二分に楽しませてくれたいい作品だった。

これまで、文学作品をモチーフにして物語を展開してきたこのシリーズ。どの巻もよく掘り込まれた解釈で物語を作っていて、ある意味一種の文芸批評的な作品にもなっているのかもしれない。物語をもう一度フィクションとして描きなおす、と言うことはそういう意味でも面白い。そして何より作者のその作品に対する愛情が伝わってくるのが素晴らしい。
そして、だからこそ、と言っていいのかどうかは分からないが、最終巻のテーマはまさに「作家」そのものが物語のテーマとなっている。ものを書くとはどういうことか、作家であると言うこととはどういうことか、それは昔から問い続けられてきたものだろう。
そして、この作品で主人公が出した答えはとても、前向きで美しいものだ。そして、その美しさに説得力を持たせるための十分な下積みが既刊のシリーズで十分に行われてきたからこそ、その答えを僕は違和感無く受け入れられた。その点がこの小説の最も素晴らしいところだと僕は思う。
きっといつかまた、読み直したい。そう思える物語でした。

生徒会の一存――碧陽学園生徒会議事録1――著:葵せきな

たまには、ギャグで笑えるようなものが読みたいなと思い、話題にもなっているので読んでみた作品。
主人公、杉崎鍵は美少女だらけの生徒会の副会長で黒一点。ギャルゲーエロゲー大好きで自分はこの生徒会でハーレムを作るんだといって憚らないような破天荒な性格で、当然他のメンバーからは路端の石のような扱いを受けている。子供っぽい会長とクールで悪女な書記、男勝りでボーイッシュなもう一人の副会長に彼女の妹で男性恐怖症でBL好きな会計。この五人が繰り広げる日常を綴った作品。

とても楽しめた作品でした。まず、作者自身「四コママンガみたいに読める小説」を目指して書いたというように、ものすごくさくっと読める。キャラクターのノリとか会話のテンポとかを作者さんが完全に分かってる感じがします。西尾維新の会話ほどの破壊力はありませんが、それでも掛け合いだけでも十分に楽しめるというのは素晴らしい。
それと、何より自分にとって、この主人公は(客観的に見てダメすぎるけれど)とても共感できるかっこよさをもったヤツだった、ということが大きい。この杉崎のように、ギャルゲー大好きだから現実でもギャルゲーみたいな状況目指すぜ! というのは相当ダメな発想、というか何より美少女ゲーマー(こう書くと美少女のゲーマーみたいだ。まあいいか)が蔑まれる一番分かりやすい思考回路だったりすると思いますが、ある意味、この思考は悪くないんじゃないかと思うのです。
作中で主人公の杉崎は自分がギャルゲーにはまった経緯として、過去に義妹と幼馴染に挟まれて結局どちらとも破綻してしまった、という過去があります。それを告白した杉崎は当然「この駄目人間!」と生徒会の面々から罵倒されるわけですが、ギャルゲーを傷心の杉崎にうっかり勧めてしまったのが現会長だった事が判明し、なんとも気まずい雰囲気の中、それでも杉崎は会長に感謝します。自分に指針を与えてくれてありがとう、と。杉崎は自分のやったギャルゲーについてこう語ります。以下、ちょっと長い引用。

「そうは言いますけど、あの頃の俺には結構衝撃だったんですよ、アレ。特に……ハーレム系の展開になるものは、カルチャーショックだったんです。ああ、こんな展開もあるんだなぁって。荒唐無稽だけど、でも、皆が微笑んでいられる未来は、ちゃんと、あるんだなぁって」
「……杉崎……」
「特に、ギャルゲの主人公って、どういうわけか俺と似た状況なの多かったから。義理の妹とか幼馴染とか居て。三角関係になって。軽くドロドロして」
「…………」
「でも……悔しいんだけど、アイツら主人公と来たら、十中八九、最後には幸福を掴みやがる。ホント……俺、何度泣いたことか。あぁ、どうして俺はこうなれなかったんだろうって。どうして俺は……二人を、ちゃんと、幸せにしてやれない、情けない俺だったんだろうって。だから、俺はそれで決めたんです。俺は……『主人公』になるって。たくさんの女の子を平気な顔で幸せにする『コイツらの側』になってやるって」
(中略)
「皆好きです。超好きです。皆付き合って。絶対幸せにしてやるから」

僕はこの台詞に痺れた。最高にかっこいいじゃないか、と。全てが冗談になってしまうようなコミカルな作品中の台詞だからこそ、余計にこの言葉は光ります。冗談という皮肉を挟むことでそれでも肯定したいという強度を持つからです。それは美少女ゲーム批評で行われている肯定の形とはまた違ったものだと僕は思います。もちろん、ツッコミどころは多々あります。そんなの男のエゴだろうとか。だけれど、それでも皆を愛せる人間になれるように努力する、ゲームの『主人公』になるために努力する、という姿勢は悪いことじゃないと思います(これもひょとするとエゴなのかな?)。
それでも、ねーよwというツッコミは自分でもしたいくらいですが、少なくとも、美少女ゲームに憬れる、というのは、わざわざアンビバレントな感情にならなくても結構素朴にしてもいいことじゃないかなぁと思うのです。

批評という方法について

批評という方法、について自分の思うところを述べたいと思います。
僕の場合、批評というのは人に届けるための言葉であり、価値の幅を広げてくれるものだと考えています。そして何より自分を納得させるための言葉でもあります。
このブログを見ても分かるとおり、僕は小説が好きです。特にライトノベルと一般に呼ばれている領域のものを中心に読んでいます。また、いくつかの美少女ゲームもやはり同様に好きです。
ここでどうして好きかという理由をいくつかあげることはできるのですが、だけれどこのエントリには記しません。その理由は、僕が思っていることに共感してくれる人にしか伝わらないと思っているからです。そしてそれはこれまでの僕のブログの記事に書いてきたことでもあります。それは感想と呼ばれるものだからです。
ネットのある現在では、共感だけで多数の人と繋がり持つことは十分に可能です。僕自身、その共感の心地よさだけでも満足していられると思っています。実際、このようなブログに気が向いたときに記事を書き、同じような感覚を持つ人を自分で見つけるのはとても楽しいです。
だけれども、その共感というものは、外部に繋がりにくい。ネットでは共感できる相手を見つけるのも容易ですが、共感してくれない、それどころか反感を持っている人と出会うことも同じくらい、むしろそれ以上にあります。そして認めてもらえないことは少なくとも僕にとっては居心地が悪い。それだけならまだしも、自分の「好き」すらも揺らいでしまうかもしれない。だから、出来れば共感してもらえない相手にも納得してもらえるような言葉が欲しい。他人は他人だと諦めるのではなく。
そうやって「欲張った」時に必要になってくるのが批評という方法です。それは、共感を超えて人に届くような、貫通力のある言葉です。そして何より、自分の「好き」を自分で納得するための言葉です。それを、僕はやはり欲しいと思っています。
僕が、筑波批評社というサークルに入っているのは多分、それが理由です。まだまだ未熟者ですが、精進していきたいと思っています。

2008年上半期ライトノベルサイト杯

というわけで参加してみます。
まず、新規作品から。
まず、第一に挙げたいのは「君のための物語」落ち着いていて、それでいてユニークな語り口で物語に引き込まれます。タイトルに惹かれる人は是非読んでみてください。

君のための物語 (電撃文庫)

君のための物語 (電撃文庫)

【08上期ラノベ投票/新規/9784840241663】
また、「君のための物語」と同じ月に発売された「MAMA」も外せません。
「母として成長していく」という姿を見せつけられました。やはり彼女の作品にはある種の凄みがあります。
MAMA (電撃文庫)

MAMA (電撃文庫)

【08上期ラノベ投票/新規/9784840241595】
次に、散々話題になりましたがとある飛空士の追憶
王道的な展開を見事に描ききった良作です。正直、ガガガでこんなに真っ直ぐな作品が出るとは思わなかっt(ゲフンゲフン
とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫)

とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫)

【08上期ラノベ投票/新規/9784094510522】
あとは新レーベル一迅社文庫から、「ある夏の日のお見合いと、あるいは空を泳ぐアネモイと」零と羊飼いの2作品を上げたいと思います。
「ある夏の日の〜」は、美少女ゲームライターである朱門優氏の初小説作品ですが、彼の作る物語の仕掛けは小説でも如何なく発揮されていました。あまりにゲームぽい文体のため、ちょっと読むのには戸惑いましたが、それを逆手に取ったともいえるようなラストの展開には、わかってはいてもやはり驚きと感動を禁じ得ませんでした。【08上期ラノベ投票/新規/9784758040037】
零と羊飼い」のほうも、朱門氏と同じゲームライター出身の作家さんですが、こちらも朱門氏とは違った意味での物語の仕掛けに驚かされました。なんというか、「メタ」を「ベタ」に書いた作品、と評するのが一番適切な気がします。「ゲーム的リアリズム」と言う単語に反応してしまう人は是非読んでみるといいと思います。
零と羊飼い (一迅社文庫)

零と羊飼い (一迅社文庫)

【08上期ラノベ投票/新規/9784758040013】
新規部門はどちらかというとあまりひねくれた作品を読まなかった気がします。どうやら素直に感動できる話に飢えていたようです。

次に、既存作品部門。
なんといっても両方とも第四巻が発売された、スプライトシュピーゲルオイレンシュピーゲルの二作が強烈でした。
これまでリアリティ溢れる戦争を描いてきたこのシリーズですが、ここに来て冲方丁氏の本領発揮といったところ。作中何度も震え、泣きそうになりながら読んでいました。特にスプライトのほうのTRPGのシーンは必読です。

【08上期ラノベ投票/既存/9784829132814】
【08上期ラノベ投票/既存/9784044729080】
さて、この二作品が強烈過ぎて正直これだけでもいいんじゃないかと個人的には思っているぐらいなのですが、あと三作を挙げるとすれば、人類は衰退しました3」「輪環の魔術師2」文学少女と神に望む作家」です。
人類は衰退しました」は3作目にしてまた手法をガラッと変えたロストテクノロジー探索ものでしたが、いつものロミオ氏らしい毒と皮肉も相変わらずでついついにやりとしてしまいます。きっと何でも書けるんだろうなぁ、この人。
輪環の魔導師2」は個人的に最も安心して読める作家である渡瀬氏の新シリーズ二作目です。キャラクターのつくりやストーリーの持っていき方にまったく隙も違和感も無く楽しめます。
「"文学少女"と神に望む作家」はいよいよクライマックス直前ですね。此処にきて物語もマイナス方向の盛り上がりが最高潮に達しました。いい加減助けて。
人類は衰退しました 3 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 3 (ガガガ文庫)

輪環の魔導師 (2) 旅の終わりの森 (電撃文庫 わ 4-26)

輪環の魔導師 (2) 旅の終わりの森 (電撃文庫 わ 4-26)


【08上期ラノベ投票/既存/9784094510614】
【08上期ラノベ投票/既存/9784840241915】
【08上期ラノベ投票/既存/9784757741737】

以上です。とりあえず自分がこれまで読んできた本を確認できただけでも良かったかな。

銀色ふわり(著:有沢まみず)

世界中のの生物から知覚されず、また自分も生物を知覚出来ない。それは完全に孤独だということ。そして、その孤独な世界に生きる「黄昏の子供たち」女の子と、その子を見ることが出来る男の子のボーイミーツガール。これはそんな孤独と絶望と優しさの物語だ。

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