『あたし彼女』について

第三回ケータイ小説大賞大賞受賞作『あたし彼女』(著:kiki,リンク:http://nkst.jp/vote2/novel.php?auther=20080001)を読んだ。
あわせて、『ケータイ小説的。』(著:速水健朗)を読んだのだが、そこで書かれているこれまでのケータイ小説と『わたし彼女』とを比較してみると興味深い点が見つかったので、少しばかり考えてみようと思う。(ちなみに、僕はこれまでケータイ小説をまともに読んだことがないので(汗)、この考察はあくまで『ケータイ小説的。』でのケータイ小説観と『あたし彼女』についての比較に基づいたものです)
ケータイ小説的』によると、ケータイ小説で頻繁に、しかもリアルに描かれているものはデートDV(恋人同士でのDV)と呼ばれる恋人同士の関係である。彼氏が彼女のことを束縛し、時には暴力を振るう。そして彼女はそんな彼氏に対し、自分が至らないせいで彼は怒ったのだ、むしろ、暴力は自分に対する愛が合ってこそなのだ、と思い込んでしまう(これは彼氏が暴力を振るった後特に彼女に対して優しく、献身的に振舞うことにもよる)ことで暴力を許容してしまう。
非常に大雑把に言えば、デートDVとはこのような関係である。そして、それらが描かれるケータイ小説を、読者は「リアル」なものとして読んでいる(ケータイ小説の読者が実際に「リアル」を求めている、と言う話も『ケータイ小説的。』には論じられている)。
ここには、ケータイ電話の普及により、簡単に人とつながってしまうが故に、現在の若者が人とのつながりを何よりも大切にし、そして束縛されているという社会背景がある、と速水氏は分析している。
さて、ここで『あたし彼女』の話に移る。
あたし彼女』の設定を説明すると、男遊びに慣れていていかにも軽い「今時?」(本人が言ってる)な女性、アキは、現在トモという31歳のサラリーマンと付き合っている。アキはトモのこともこれまでの男と同じようにすぐに切れる関係だと思っている(少し長く続いているのもトモのセックスが上手いからだ、とアキは言っている)。アキの生き方は真実の愛なんてあるわけない、とりあえず今を楽しめばいいじゃん、という刹那的なものだ。
そんな風に生きてきたアキは自分は男から求められて当たり前だ、という感覚を持っている。実際、アキとこれまで付き合ってきた男はおそらく皆アキのことを求め、そしてアキに捨てられてきたのだろう。だけれど、トモはこれまでの男と違い、アキの言うことは聞いてくれるが、アキを求めたりはしない。アキと会う日も部下の仕事の手伝いで遅れるから、という理由で会うのに遅れたりする。そのことに、アキは不満を持っている。以下、その部分の引用。(改行を一字開けにしてあります)

でも トモは ちょっと 他の男と違う 束縛無いし アタシの事 特に 聞いてこないし いや 言う事聞いて くれるのは 他の男と 同じ なんだけど 何かが 違う 何か 他の男と違う なんか よく わかんないんだけど アタシ 男に求められて 生きてきたじゃん? だけど トモは アタシを 求めない アタシば欲しくないのか みたいな 逆に そんなの 初めてで ちょっと 悔しい みたいな 別に 特別いい男 じゃないんだけど 何それ 余裕? アタシにたいして みたいな なんか そんなの アタシが 負けてるみたいで 主導権は アタシなんだけど なんか 違うんだよね

ここで「束縛」という言葉がストレートに出てきていることに注目したい。これは『ケータイ小説的。』で書かれている彼氏からの束縛を受けてしまうことで愛を感じる、という受動的な構図の逆である。
この独白のすぐ後にアキはトモと買い物に出かけるのだが、そのときに寄ったアクセサリーショップでトモはペアのブレスレッドをアキの分「だけ」買う。そのことにアキはトモを問い詰めるのだが、そこでトモから『お揃い 嫌だろ なんか 束縛してるみたいで だから いいんだ』という台詞が出てくる。アキはその台詞にショックを受け、思わずもう片方のブレスレットもトモに買わせる。
ここで、明らかに『ケータイ小説的。』での恋人関係とは正反対の構図が現れていることが分かるだろう。彼氏が束縛し、彼女が応えるというこれまでの構図と異なり、『あたし彼女』では束縛を彼女が求めて彼氏が応じている、と読めるのである。『あたし彼女』はその散文詩的な文体が話題になっているが、内容的にもこれまでのセオリーの逆を突いている点でこれまでのケータイ小説とは一線を画していると見ることができるのではないか。
実際、『あたし彼女』はこの後もトモからアキへの束縛や暴力といったものは一切無く進んでいく。これまで「リアル」だと思われていた「ケータイ小説的」な要素もほとんどこの作品では感じられない(唯一、アキが妊娠し、流産してしまう、という描写はあるが)。
むしろ、彼女から束縛の欲望をあらわにする、という点は男性にとってあまりに理想的過ぎる女性像のように見えてしまう(アキの場合ツンデレ的な意味で)。そして、そんなアキの姿がこれまで「リアル」を求めてケータイ小説を読んできた人たちに受け入れられ、大賞に入選した、ということはなかなかに面白いことだと思うのだが、どうだろうか。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち