劇場版・涼宮ハルヒの消失の感想ととあるシーンの演出について。

 面白かった。京アニらしい丁寧な作りになっていて、期待を裏切られなかったと思う。全体的に、キョンの描き方が非常にうまいな、と感じた。特によかったのはキョンが谷口からハルヒの情報を聞きすところで、全体的に漂っていた圧迫感と緊迫感が開放されてとても気持ちよかった。多分一番泣きそうになったのはあのシーン。多分次点がPCに長門のメッセージが表示される場面。あれ「憂鬱」でも大好きな演出なんだよなー。
(以下激しくネタバレにつき格納)

ただ、ちょっと引っかかったのは、映画のクライマックスにおけるキョンの独白のシーンが過剰に強調されていた点。僕としては「消失」の一番面白いところはあの「日常」と「非日常」の選択シーンだとおもっているので見ている最中は結構興奮して見ていたのだけれど、見終わってから友人と話したりしてやっぱりちょっとやりすぎじゃないか、と言う話になった。しかし、考えてみるとあそこまでやる必然性は結構あったんじゃないかと思ったのでちょっと書いてみる。ついでに、アニメ版と原作の「ハルヒ」について思っていることも(ちなみにこのことはラジオでも話したのでその議論をまとめる意味もある)。

アニメ版ハルヒと原作ハルヒの最も異なる点は、キャラの「かわいさ」だと思っている。小説での人物描写は東が指摘しているように、「お約束」が全面に押し出されたかたちになっていて、読者は「こういうふうにかわいいキャラだ(つまりこう言う萌えキャラだ)」ということを感覚的にではなく、まず「理屈」で理解する。少なくとも,僕自身がハルヒを初めて読んだときにはそう感じた。だから、小説版ハルヒの登場人物に「素直に」萌えることは結構大変で、そこにはキャラクターとの(非常に感覚的な言葉で申し訳ないけれど)距離感がある。しかし、その距離感こそがおそらく「ハルヒ」という小説(むしろ谷川流という作家)の面白さの一端を担っている。原作ハルヒはその距離感によって、登場人物を「みくる」「長門」「小泉」という、一つの個性を持った(伊藤剛的な意味での)「キャラクター」ではなく、「未来人」「宇宙人」「超能力者」(+萌え要素)という匿名的な存在として見るように読者を誘導していて、それがハルヒキョンの行動の動機につながっているように読める。
 一方,アニメ版ハルヒではどうか。まず、絵がある。声がある。動きがある。ハルヒが,長門が,みくるが動いている様は,直感的にかわいく、萌えられる存在になっていた。そこに小説版で感じたキャラクターとの「距離感」は無くなっている。それは作品におけるキャラクターの役割を原作とは変えてしまってはいないだろうか。おそらく視聴者は「みくる」「長門」「小泉」を「みくる」「長門」「小泉」としてみる。同様に、キョンが彼らを「未来人」「宇宙人」「超能力者」ではなく、彼らを「キャラクター」としてみていると考えるのではないか。
 さて、ここで「劇場版消失」を考えてみる。具体的には、キョンが行動をする動機についてだ。さて、原作「ハルヒ」では、「キャラクター」としての登場人物たちの役割は強くなく、だからこそ、キョンの最後の決断として、「日常」と「非日常」を選ぶというメッセージ性はかなりわかりやすく読者に示される。しかし、アニメ版「ハルヒ」ではどうか。アニメ版「ハルヒ」では登場人物たちは「キャラクター」として表現されている。だからこそ、キョンSOS団に巻き込まれる動機も、「未来人」「宇宙人」「超能力者」という「属性」ではなく、「みくる」「長門」「小泉」という「キャラクター」によるものだと理解されやすい。だからこそ、「劇場版消失」におけるキョンの決断も、特に強調しなければ、「日常」か「非日常」か、ではなく、(例えば)「長門」か「ハルヒ」かという「キャラクター」の選択という見方「のみ」に回収されてしまうのではないか。だからこそ、キョンの最後の独白に過剰な演出をかけ、「日常」と「非日常」の選択、というメッセージを、誰にとっても分かるように表現する必要があったのではないだろうか。
 
 まあ、つまり何が言いたいかというと、結局のところあの演出には大満足ということですねw



涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

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劇場版 涼宮ハルヒの消失 オリジナルサウンドトラック

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