青年のための読書クラブ(著:桜庭一樹)

男子禁制の女学院。生徒会、演劇部がその光だとするならば、読書クラブは影、女学院のアウトローたちの集い場である。「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家たる」彼女たちは皆「ぼく」と自らを語り(重要)*1、箱庭でさえずる少女たちを遠めに見ながら毎日本をめくり続ける。その退廃的な空間は世の本好きたちがきっと一度は夢見る文学青年たる少女たちの楽園である。そして、そんな読書クラブが、歴史の風になぎ払われてしまうまでの百年間で彼女たちが残した、学園の黒歴史書ともいえる『読書クラブ誌』。その中のいくつかのエピソードを綴ったものが本書である。
彼女たちは決して表舞台には出ない傍観者であったが、また間違いなく当事者でもあった。読書クラブの名も無き女生徒たちが書き記した事件の数々は、赤裸々に女学院の本性を暴く。そしてそれゆえに読者は――『青年のための読書クラブ』という本書の題名に惹かれてしまう私のような読者は、さらにその女学院を魅力的に思うことだろう。そして、実在するいわゆるお嬢様学校に対する幻想を抱くのである。上品ではあるが大人ではなく、子供ではあるが知的な彼女たちに、彼女たちの言う野蛮な男子ばかりの高校で過ごした私などは特に。嗚呼……。
さて、妄言はこの位にしておくとして、桜庭一樹が『赤朽葉家の伝説』の後に出した本書は、『赤朽葉』と同様に、読書クラブを通じて舞台である聖マリアナ女学院の誕生から女学院が共学となり女学院でなくなる100年間の歴史を書いた作品である。『赤朽葉』のようなスケールの大きさは無いが、その代わり「少女」に焦点が絞られている。それぞれの時代を生きた読書クラブの少女たちの姿は時に無邪気で時に狡猾で何より知的で、まさに桜庭一樹の「理想の少女達」が描かれているように私には感じられる。少女達は女学院という箱庭で彼女達なりの青春を過ごし、世に出て行きばらばらになり、そして老いる。それでも読書クラブの面々は少女であり続ける。そして今の青年達に呼びかけるのだ。よき人生を、と。まさに、本書は「青年のための」小説である。

青年のための読書クラブ

青年のための読書クラブ

*1:一人称「ぼく」の女の子は正義

ソフィーの世界(ヨースタイン・ゴルデル)

この小説は、主人公ソフィーがある日「あなたはだれ?」「世界はどこから来た?」と言う手紙を受け取るところから話が始まる(それとともにヒルデという謎の女の子に対する誕生日メッセージも受け取る)。ソフィーがその問題に頭を悩ませていると、その次の日、その匿名の手紙の主から、「哲学講座」とかかれた手紙が届く。その日から、名も知らぬ哲学者とソフィーの不思議な哲学講座が始まった――。
僕がこの本に始めて出会ったのは中学生の頃だった。最初のギリシア三大哲学者のあたりまではなんとか読めたのだが、当時は(世界史の知識がさっぱりだったせいもある)、それ以降のヘレニズム期になったところから急にわからなくなり、結局途中で放り出してしまった。
そして、5年後の今、ようやく読み終えることが出来た。なんというか、感無量である。
さて、この小説は哲学ファンタジーという奇妙なジャンルの小説だ。物語の流れは、ソフィーと手紙の主(途中でソフィーは彼の居所を突き止める)との哲学講座が中心となる。その講座は「哲学とは何か」と言う問いかけから始まり、古代から順に哲学史を追っていく。中学生でもなんとか理解できる程度に(僕は挫折したが)とても解りやすく書かれているので、それだけでもとても面白い。しかしながら、それと平行して、ソフィーがその手紙の主、アルベルトと出会う頃から、ソフィーの周りには不思議な出来事が起こり始める。彼女にはヒルデという謎の女の子宛の手紙が届き続け、さらには彼女の犬がいきなり話し出したり、鏡の中の自分が自分にウインクしたり、アルベルトが自分の名前をヒルデと呼び間違えたりする。そしてそれらの出来事は、どうやらヒルデの父親である少佐の仕業であるということがアルベルトの口から語られるのだが、それでもソフィーに対しての具体的な説明はまったくなく、ソフィーは混乱し、不安に陥る。
以下ネタバレにつき注意(十年以上前の出版なので今更ネタバレも何もないかもしれないけれど)

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スプライトシュピーゲル、オイレンシュピーゲル(冲方 丁)

これは、これから起きるかもしれない、いや、もしかするともう既に起きているかもしれない世界の戦争と戦う少女達の物語である。

文章は読みにくい。一文あたりに大量の情報が圧縮されているため、うっかり読み流すと今何がどうなっているのかがわからなくなってしまうからである。この小説の文章はあまりにも記号的で、速すぎる。
だが、わかりにくさを差し引いたとしても、この小説が持つドライブ感はすさまじいものがある。まるで高速道路の標識を次から次へと眼で追っていくような感覚だ。全てを追っていくのはとても大変だが、その速さのままにカタルシスに連れて行かれる感覚は格別のものがある。id:kaien氏も『コードギアス』の速度。 - Something Orangeで言及していらっしゃったが、この速さゆえのカタルシスというのは確かに存在すると思う。

だが、この小説の本当に凄いところはそんな文章を、「現実」を物語の舞台にすることで薄っぺらなものにしていない点である。
小説の世界での世界状況は現実と酷似し、彼女達が立ち向かう事件はまさに現実で起こりうる出来事だ。テロ、虐殺、戦争、etc……。そんな世界の暗部を真正面から描いている。それゆえに、この小説は一種の独特で切実なリアリティを持つ。そして、そのリアルな戦争の中で自分達の傷と向き合いながら戦う少女達の姿は切実に心を打つのである。

両シリーズとも後二巻で完結(スプライトにそう書いてあったから多分オイレンもそうだろう)。最後までこの高速道路をドライブしていきたい。

文学フリマ終わりました。

2008春の文学フリマ、無事終了しました。参加者、運営者の皆さん、お疲れ様でした。
冊子を買っていただいた方に最大限の感謝を。本当に嬉しかったです。

僕としては初めての同人誌即売会だったのですが、とても楽しかったです。なにぶん人見知りなので他の方々との交流はあまりできなかったのですが、それでも何人か参加者の方々とお話しすることが出来ました。こういう形で人と繋がれることはとても素敵なことだと思います。
次回の秋は同じ会場ですが、来年は会場が今回より広い会場に移るそうです。また、参加したいですね。

文学フリマ2008に参加します。

いきなりですが、明後日、5/11文学フリマ2008に参加します。ブースはB-40です。(HPはこちら文学フリマ | 小説・評論・詩歌 etc.の同人/商業作品展示即売イベント
『ソフラマ!』というライトノベルについての雑誌を出します。創刊号、第一号ともに100ページ近くの、コピー本としては限界ぎりぎりの厚さです。TRPGを小説化したり、ファウスト一号で座談会したり、となかなか濃い内容になってはいるかな、と思います。(ちなみにサークルHPはこちらsofuramaの日記
僕個人としては創刊号に小説を書きました。原稿用紙15枚くらいで喫茶店と幽霊の女の子のお話。恐ろしいことに連載予定です。さて、どうなることやら……。それと川上稔終わりのクロニクル』のブックレビューも載ってます。
また、創刊号にはid:tsuttonさんの評論『ライトノベルポストモダン』、第一号にはid:sakstyleさんのダブルブリッド論が載ります。
創刊号、第一号ともに百円です。よろしくお願いします。

「ライトノベルを読むメリット」についての回答について

最近、こんな質問があったらしい
ライトノベル愛読者が理解できない -近年、ライトノベルが市民権を得て- 文学・小説 | 教えて!goo
さて、この質問が確かに挑発的に見えるのは確かだし、質問者に悪意があったのかどうかも、僕には判断できない。まあ、ただ、ここでは別に質問者は問題ではない。このような質問がされたことは今回初めてじゃないだろうし。だけれどそれ以上に僕がちょっとどうかと思ったのはその回答についてだ。
「面白ければそれでいいじゃん」
おそらく、回答者の多くの人の意見はここに集約される。もちろん、それは究極的な答えだと思うし、そういうスタンスを否定する気は全く無い。
けれど。
その言葉は、その面白さがわからない人にはわからなくていい、というニュアンスを含んではいないだろうか? 僕は、(思い違いかもしれないけれど)回答者の多くから、そんな印象を受けた。そして、「それはちょっと寂しくないか?」 と思ったのだ。
確かに、ライトノベルに限らず、一般にフィクションはおそらくは「面白いから」という理由で受け入れられているだろう。しかし、ではそれが「どう面白いのか」を説明することは出来ないのだろうか?いや、できる。
そもそも、僕たちがフィクションを読んで、あるいは見て、そこで得た「面白い」(これは「カッコイイ」「泣けた」「萌えた」その他もろもろに置換可能)という感情は、そこから「何か」を得たから感じたものではないのだろうか(ちょっと言い過ぎかもしれないけれど)?
それを説明できれば(そして、ライトノベルのレビューブログを書いている人たちはその説明ができていると思う)、その「面白さ」は共有可能だと思うし、その「何か」はメリットに十分になりうると思うのだが、どうだろう?

う〜ん、文章が上手くない上に言葉が足らない。けれど、言いたいことは、もうちょっと外を受け入れてもいいんじゃないかなぁということ。やっぱり、自分が好きなものが人に受け入れられないのは辛い。それを受け入れてもらうためにはまず相手の価値観を受け入れた上で、ちゃんと自分の言葉で自分がそれがどんな理由で好きであるのかをちゃんと言う必要がある。それは多分きっと凄く難しいし、僕に出来る自信は無いけれど、多分やらなくちゃいけないことなんじゃないか。そんな事を思いました。

別冊図書館戦争1

この本の正しい読み方はきっと終始ニヤニヤして読むことなんだ(=人前では読めない)。
今日からアニメ化した「図書館戦争」のスピンアウト作品。帯に「恋愛成分が苦手な方はご健康のために購入をお控えください」と書いてある時点でもうニヤニヤ。読み始めてすぐに郁がリンゴの皮を剥むくのに四苦八苦してるのにニヤニヤ。最初からエンジン全開で有川浩ワールド。もう堂上も郁にデレてるからブレーキが利かない。最高ですね。もっとやってください。

図書館戦争シリーズがやはり僕は大好きらしい。その理由はもちろんこのラブコメっぷりがいいのもあるけれど、何より作品全体を通して本や表現に対しての言及がストレートになされているからだ。
今作中でなるほど、と思ったのは、差別表現についての話。「図書館戦争」の世界では「メディア良化法」と呼ばれる法律があって、言語の規制を行っている。そして「メディア良化法」の下で組織されている「良化機関」は、法が指定した「違反語」を用いた表現が含まれるメディアに対しては強制的に規制することが出来る(その良化機関から本を守るのが、この世界の図書館だ)。そして、このメディア良化法というものが現実の表現の規制の風潮を風刺したものだということは言うまでもないことだろう。
さて、今作はスピンアウト作品ではあるけれど、その「違反語」についての疑問を提示するエピソードがあった。
以下、ネタバレにつき注意

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