別冊図書館戦争1

この本の正しい読み方はきっと終始ニヤニヤして読むことなんだ(=人前では読めない)。
今日からアニメ化した「図書館戦争」のスピンアウト作品。帯に「恋愛成分が苦手な方はご健康のために購入をお控えください」と書いてある時点でもうニヤニヤ。読み始めてすぐに郁がリンゴの皮を剥むくのに四苦八苦してるのにニヤニヤ。最初からエンジン全開で有川浩ワールド。もう堂上も郁にデレてるからブレーキが利かない。最高ですね。もっとやってください。

図書館戦争シリーズがやはり僕は大好きらしい。その理由はもちろんこのラブコメっぷりがいいのもあるけれど、何より作品全体を通して本や表現に対しての言及がストレートになされているからだ。
今作中でなるほど、と思ったのは、差別表現についての話。「図書館戦争」の世界では「メディア良化法」と呼ばれる法律があって、言語の規制を行っている。そして「メディア良化法」の下で組織されている「良化機関」は、法が指定した「違反語」を用いた表現が含まれるメディアに対しては強制的に規制することが出来る(その良化機関から本を守るのが、この世界の図書館だ)。そして、このメディア良化法というものが現実の表現の規制の風潮を風刺したものだということは言うまでもないことだろう。
さて、今作はスピンアウト作品ではあるけれど、その「違反語」についての疑問を提示するエピソードがあった。
以下、ネタバレにつき注意

「五.シアワセになりましょう」では、木島ジンという作家が登場する。彼はメディア良化法による「違反語」を一切使わずに過激な表現を用いて小説を書く(例えば「自営巡回ゴミ漁りはそれらしくゴミ箱で今日のメシでも漁ってろ!」等)。
もちろん彼の小説は多くの人からその過激な表現により眉をひそめられているわけだが、それに対して彼はむしろそれを望んでいると言う。なぜなら彼は「違反語」を使わない表現でもこんなにも人を貶めることが出来るということを証明したいがために小説を書いているからだ。
その理由を彼はこう語る。

言葉だけ狩って蓋をして差別がなくなると思ってる奴、あるいは過去に誰かに存在した差別がそれで帳消しになるなると思ってる奴にも思い知らせたいんですよ。

つまり、差別があったのならその差別を指し示す言葉を禁じればその差別は解決する、というのは大間違いだ、と彼は言っているのだ。差別というものは「言葉」に依存するものではなく、言葉の「使い方」に依存するものだからだ。例えば、○○人といった言葉が、時には人を貶める言葉として使われるように。だから、「違反語」などを指定するのは本質的にナンセンスなことなのだ。
無論、これは作中のキャラクターが言っていることだが、おそらくは有川浩の表現に対するスタンスであるととってもいいだろう。彼女は、このエピソードに限らず「図書館戦争」シリーズを通して表現の自由に対してかなり直接的に言及している。それをエンターテイメントとして上手く昇華させて読者に届けることが出来たこの作品はやはり傑作ではないかと思うのだ。

さて、このエントリを書いている途中で丁度アニメ放送が始まったので視聴した。うん、面白い。何より堂上がものすごくかっこいい。ちょっと軽すぎるかなぁという気もしたけれど、考えてみると原作そのままの雰囲気なのかもしれないと思い直した。ただ、ちょっと麻子が意外だったかなぁ。もっと冷たい印象だったのだけれど。

別冊 図書館戦争〈1〉

別冊 図書館戦争〈1〉