批評という方法について

批評という方法、について自分の思うところを述べたいと思います。
僕の場合、批評というのは人に届けるための言葉であり、価値の幅を広げてくれるものだと考えています。そして何より自分を納得させるための言葉でもあります。
このブログを見ても分かるとおり、僕は小説が好きです。特にライトノベルと一般に呼ばれている領域のものを中心に読んでいます。また、いくつかの美少女ゲームもやはり同様に好きです。
ここでどうして好きかという理由をいくつかあげることはできるのですが、だけれどこのエントリには記しません。その理由は、僕が思っていることに共感してくれる人にしか伝わらないと思っているからです。そしてそれはこれまでの僕のブログの記事に書いてきたことでもあります。それは感想と呼ばれるものだからです。
ネットのある現在では、共感だけで多数の人と繋がり持つことは十分に可能です。僕自身、その共感の心地よさだけでも満足していられると思っています。実際、このようなブログに気が向いたときに記事を書き、同じような感覚を持つ人を自分で見つけるのはとても楽しいです。
だけれども、その共感というものは、外部に繋がりにくい。ネットでは共感できる相手を見つけるのも容易ですが、共感してくれない、それどころか反感を持っている人と出会うことも同じくらい、むしろそれ以上にあります。そして認めてもらえないことは少なくとも僕にとっては居心地が悪い。それだけならまだしも、自分の「好き」すらも揺らいでしまうかもしれない。だから、出来れば共感してもらえない相手にも納得してもらえるような言葉が欲しい。他人は他人だと諦めるのではなく。
そうやって「欲張った」時に必要になってくるのが批評という方法です。それは、共感を超えて人に届くような、貫通力のある言葉です。そして何より、自分の「好き」を自分で納得するための言葉です。それを、僕はやはり欲しいと思っています。
僕が、筑波批評社というサークルに入っているのは多分、それが理由です。まだまだ未熟者ですが、精進していきたいと思っています。