『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』(著:田尾典丈)

とても、面白かった。主人公にかなり感情移入してしまって、色々身悶えながら一気に読み終えてしまった。『ラノベ部』にしてもそうだったけれど、主人公がプレイヤー、もしくは読者であるというのは反則的だと思う。だって、それだけで楽しめてしまうから。
この小説は、ギャルゲーの世界が現実になってしまったら、というネタにしかならない話を本気でやってしまった作品だ。前半から後半にかけては、ゲームと現実とを比べることでゲームの都合のよさや、システム上の矛盾点から来る問題に主人公の武紀が直面し、それをどうにか解決していく話となっている。そこを突っ込むか、という点(主人公がゲーム上は18歳以上だと言うところまでも!)まで使った話の構成は、なかなか意外性があって面白かったし、試練を乗り越えた武紀が「ヒロイン全員幸せにしてみせる」と言う決意はご都合主義に生じる責任を引き受けていると言う意味で格好良かった。
しかし、この小説で一番考えさせられたのは最後の主人公の選択だ。武紀が「全員幸せにしてみせる」と言ったヒロインはしかし、武紀自身の最初のミスによって全員消えてしまう。ヒロインがいない日常に戻ったことに喪失感と、しかし自身の成長を感じていた武紀に、もう一度ヒロイン達を現実に取り戻せる選択肢が現れる。ここで、武紀はヒロイン達をもう一度呼び戻す、つまり現実をギャルゲーの世界にすることを選ぶのだが、僕自身は武紀のこの選択をとても面白いと思った。
おそらく、ここで現実の日常を生きる選択をする姿のほうが綺麗なのだろうとは思う。そこでまたゲームの世界を選ぶのは成長してない証拠なんじゃないのか、という気もする。だけれど、僕はそこでゲームの世界を選ぶこともある種の成長の証なんじゃないだろうかとも思うのだ。
ゲームに限らず、フィクションを現実に持ってくるのは(田中ロミオの『AURA』的な)痛々しさを伴ってしまう可能性がある。だからこそ、『AURA』でのメッセージは「普通を頑張れ」であって、とても説得力があった。そこではフィクションと適切な距離を取れることが成長のように描かれていたように思う。
ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』はではそれがまったく逆だ。最後にゲームと言うフィクションをまた引き寄せている。だけれど、だからと言ってこの姿が『AURA』の妄想戦士たちのように痛々しいかと言うとそうではない。なぜかというと武紀はゲームの都合のよさを全部引き受けているからだ。現実でギャルゲーみたいに振る舞おうとするのは辛い、ということを知った上で武紀はゲームの世界を現実に持ってくることを選んだ。ここで武紀は「はい」と言えないことは逃げていることだ、と言うのだが、僕はこの言葉に、『AURA』とは違う、成長の姿を見ることが出来ると思うのだが、どうだろうか。

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ! (ファミ通文庫)

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ! (ファミ通文庫)