リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」

サークルでこの本について読書会をしていたことは前にも書いたと思う。
とりあえず、読書会が終わって、自分の中でおぼろげながらもこの本で言われていることに対しての意見がまとまってきたのでちょっと書いてみる。多分、間違っているところや勘違いしているところ、よくわかっていないところは多々あると思うけれど、そんな自分にとっての整理の意味も込めて。

この本でローティが言っている「アイロニー」というものは、特定のものを絶対だと信じない態度、全てが入れ替え可能だという考え方のことである。そして、この考え方は現在に生きる僕たちが持ちがちな考え方だ。僕が中学生の時「個性を伸ばす教育」という言葉が叫ばれていたけれど、これもある意味「考え方は人それぞれ」というアイロニズムの提唱であるともいえる(もっとも、その教育を受けた僕の印象では、残念ながらそれは実際には叶っていなかったように感じていたが)。
アイロニーという考え方はどんな価値観でも存在を許容できるという点で現在の世界にとって重要である。だが、アイロニーは「何者も絶対と信じない」が故に残酷でありえてしまう。
だが、ローティは「リベラル」も同時に推奨する。ここでのリベラルとは残酷さを人間のなしうる最悪の行為であるとする考え方のことで、この考えによってアイロニズムの持つ残酷さを打ち消そうとする。
そこでローティは、アイロニストであり、かつリベラルであることを実現するために、自らの考えを「私的」と「公共的」に分けて考えることを提唱する。「私的」には絶対的なものなど何も無い、と考えながらも、「公共的」には「残酷さが悪だ」という態度を取ることによって「リベラルアイロニスト」となることが可能であると、ローティは述べているのである。「リベラルアイロニスト」になることによって私たちは何か一つの価値観に固執することなく、それでいて他人に残酷でない社会が、ローティの提唱する「リベラル・ユートピア」が実現する、とローティは語っている。

この主張は少なくは無い数の物語に触れてきた僕にはかなり共感できるものだった。物語というものはそれ自体が一つの価値観だ。そして、僕は数多くの物語を楽しんできた。つまり僕は多くの価値観に出会い、それらを受け入れてきたということだ。それによって、僕にはある意味アイロニスト的な考え方が自然と身についたのである。この本を読むことで、無意識だったそんな自分の側面に気付くことができた。それだけでもこの本を読む価値はあったと思う。
また、僕は(そのように全ての価値観に絶対性を感じられなくなったが故にかもしれないが)「全ての価値観を肯定出来たらいいのに」と結構本気で考えるときがある。もちろんそんなことは不可能だ。何かを肯定するということはそれに反する何かを否定することにどうしてもつながってしまうからだし、どうしても肯定できないものは存在する。それでも僕がそうやって夢想してしまうのは僕は何かを否定するということ自体を否定したがっているからだ。そしてそう考えるということは僕は「リベラル」を目指しているのかもしれない。
だから、ローティの提唱する「リベラルアイロニスト」という姿はおそらくかなり僕の理想に近い。だけれど、だからこそ、僕はそれに対して実現が難しいと感じてしまう。それこそ、そんな事が出来るのは架空の人物だけじゃないか、と。

ゆえに、僕はこの本は哲学書というよりも小説に近いと思う。僕が持ったこの本で語られている「リベラルアイロニスト」に対する憬れは小説の語る理想に対しての憬れに近いと思うからだ。ただ、そんな理想を現実に、きちんと本気で考えている人がいたということは、僕にとって嬉しいことだと感じたのは確かである。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性