悲劇と認識

教養科目の古典を扱う授業で、「悲劇と認識」という講義を今日受けた。古典とはほとんど関係のない話だったけど、個人的に興味深い内容だったのでちょっと書いてみる。
以下、講義内容。

アリストテレスは、
「悲劇とは、何か大きな出来事ではなく、そのことに対する認識ではないか」
と説明したという。

このことの例として、『スパルタクス』という作品が挙げられた。この映画のEDで、自由のために戦ったスパルタクスは磔にされ、彼の息子を抱えた妻は彼に別れの台詞を告げる。
これはあなたの息子よ。この子は自由、自由なのよ。(中略)この子はきっとあなたのことを忘れないわ。なぜなら私がこの子にあなたのことを話すから。(中略)さよなら、私の愛しい人

ここで、観客が感動を覚えるのは、『スパルタクスが死んだ』という出来事ではなく、他人(妻)が、彼の死(しいてはその生)を認識し、さらにそれを子に伝えていくことでその認識が認められ続けるという点にある。

さらに、もう一つ、この悲劇をきれいな(つまりは、悲しみ、絶望等の暗い気持ちを昇華させるということ)悲劇たらしめているのは、スパルタクスの『自己』の認識である。彼は、最期、おぼろげな意識で、彼の妻の言葉を聞き、その背中を見送る。そこで彼は、自分の「生」、そして「死」が無駄ではなかったことを知る。このように、他人の認識と自分の認識が最後に向かいあって、この悲劇は完成する。


この講義を聴いて興味深かったのは、悲劇における「自己」の認識についてだった。これまで意識しなかったが、考えると確かにこの自己の認識は悲劇を語る上で必要なことだ。もし、この作品で、最後、スパルタクスが完全に意識を失っていた、または既に死んでしまっていたのであるならば、観客は見終わった後に、少なからずマイナスの感情を抱え込むことになるだろう。

ここで思い出したのは、『こなたよりかなたまで』というADVである。このゲームの主人公、遥彼方は、重病にかかっていて、もう長くは生きられない。しかし、彼はそのことに対して自覚的であり、残りの日々を前向きに生きようとする。その姿がとてもかっこよく思えたのは、まさに今言った「自己」の認識を、彼ができているからだ。TrueEnd以外では、どのヒロインを選んでも、彼は結局助からない。だが、それがプレイヤーに対して、絶望ではなく、前向きな感動さえも与えられたのは、彼の「生」と「死」をきちんと認識してくれるヒロイン(その認識の形はそれぞれだが)と、自分の「死」をしっかり自覚し認識している彼方の姿を見ることができるからだ。それはまさにきれいな悲劇である。そういう意味でも、この作品は優れた作品だったのだなぁと講義を聴いて、思った。